東京で働いていたおよそ30年前に多摩センター駅を訪れた時、駅前に開けた広場を見て感動したことを思い出しました。
広場の先に階段があり、その上にそびえる、まるで遺跡のようなゲート。
当時俗っぽい商業施設はなかったと記憶しているので、その壮大な景観に神々しさを感じたのを覚えています。
階段の下にはその名もパルテノン劇場という舞台があることを今回初めて知りました。
2023年7月、パルテノン劇場で新木宏典さんが出演するギリシャ悲劇「オイディプス王」を観劇してきました。
ギリシャ悲劇「オイディプス王」はこんなお話
私は観劇に際して原作を読んで行きませんでした。
先入観を持たないようにして、新鮮な気持ちで臨みたかったので。
あらすじなんかはちょびっと見ちゃったんですけどね。
「オイディプス王」は、神託や占いに翻弄される可哀そうな若き王の物語です。
舞台は古代ギリシャの都市国家テーバイ。
疫病が流行り苦しむ領民たちが若き王に何とかしてほしいと訴えます。
王様はアポロン神殿から「先王を殺害した犯人を捕らえ罰を与えれば疫病は収まる」と神託を受け取ります。
実は先王も昔神託により、自分の子供に殺されると予言され、生まれたばかりの息子を殺すように従者に命じたことがあります。
その子供は殺されることなく巡り巡って他の国の王に育てられることとなりました。
子供は青年へと育ち、自分が母親と交わり父親を殺すと神託を受けたため、その予言から逃れるためひとり旅に出ました。
青年は旅の途中ですれ違った一行ともめごとがおき、怒りにまかせてその一行を皆殺しにしてしまいます。
実はその中にテーバイの先王がいたのです。
さらに旅を続けテーバイの民を困らせていた怪物スフィンクスをやっつけた青年は、テーバイの国に王として招かれ、夫(先王)を亡くしていた妃(つまり青年の母親)と結婚し子供までもうけました。
その青年こそがオイディプス王だったのです。
予言通り父親を殺し母親を娶り子をもうけたのが自分だと知ってしまったオイディプス王の悲嘆たるや、もう言葉には表せられません。
新木さんの役はお妃さまの弟クレオン。オイディプスにしたら叔父であり義理の弟。王様より年上だけど腹心の家臣という役どころです。
どのようなやり取りがあるのかまったくわからずワクワクして観劇に行きました。
原作を読まずに行ったので。
演劇は現場に行ってその空気を感じるのが一番
「演劇は足を運んで観ることに意味がある」ということをおっしゃる方がいらっしゃいます。
本当にその通りだと思います。
この演劇を見て強くそう感じました。
登場人物たちが発する言葉一つ一つが振動として胸に響く、マイクを通さずに胸に直接響く。
嘆き、戸惑い、怒り、悲しみがシンとした劇場の張りつめた空気の中で観客の心に突き刺さるという体験はやっぱり現場に行ってこそのだと思います。
コロスというギリシャ劇における合唱隊が出てきます。
この劇ではテーバイの国の民衆の役割を果たしているのですが、劇の情況を舞踏や群読を通して説明していく重要な人達です。
コロスとして登場する16人の方たちが全員で紡ぐ言葉は重厚で、それだけでもその場にいて体験するのとしないのでは大きな違いがあるような気がしました。
はっきり言って耳の悪い老人の私には群読されている言葉、内容はさっぱり頭に入ってこなかったのですが、その響きと、そして胸アツの踊りがあいまって、それだけでもうただただ感動でした。
なのですが、私は劇が始まってすぐにこれは配信があったら絶対買ってもう1回観るぞと思ってしまったのも事実です。
なぜって、舞台の視界4分の1ほどを前の人の頭で遮られていたからです。
前から4列目の席だったのですが、席に傾斜がないところだったので人の頭で舞台の低いところで行われている演技はほとんど見えませんでした。
頭をずらせば見えることもあったのですが、後ろの人のことも考えるとそうそう動かせないし.........。
そんなことも気にしながらだと観劇に集中できない。「絶対配信があったら買う! あとでゆっくり見ればいいもん」と初めの10分ぐらいですでに誓っていました。
舞台は現地に足を運んで観るは理想です。でなければ舞台の意味がない。
でも、時間的、経済的、いろいろな制約があって足を運べない人だっているんです。
だから、配信やDVDにしてほしいと思うのはささやかな願いだと思います。
残念かな、このギリシャ悲劇、今回は配信はないようなのですが。
あー、遮るものが何もないところで舞台観たかったな。
「オイディプス王」を観ての無責任な雑感
主役のオイディプス王を演じられた三浦涼介さんは、このたいへんな悲劇が希望へと感じられればというようなことをおっしゃっておられました。
私はこのたいへんな悲劇を見た後、劇場を出た時の感情はなぜかとても晴れ晴れとした清々しい気持ちでした。
血だらけで泣き崩れるオイディプスを見て心臓をわしづかみにされたような衝撃を受けたにもかかわらず、後味が心地よかったのはなぜなんでしょう。
その感情は希望―というものとはちょっと違うんですけど。
たぶんカーテンコールで見せられた三浦さんの笑顔のせいだと思います。
オイディプス王という大役を終えられた後の安堵なのか、カーテンコールでのそのかわいらしい笑顔がその前の悲惨な悲劇をふっとばして、ただただ素晴らしい劇だったという感想しか残らないようにさせてしまったような気がします。
カタルシスという言葉を知りました。
「心の中に留まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」を意味する言葉だそうです。
もともとは悲劇を観ることによる効果だそうで、ギリシャの哲学者アリストテレスが書き残した悲劇論なのだそうです。
つまり、本当のところ三浦さんの笑顔ではなくて、私の心もこのカタルシス効果によって晴れ晴れとしたのかもしれません。
そもそもこの悲劇、ご神託や占いなんかに頼るからこんなことになっちゃうんだよ、と思いました。
オイディプス王は民衆から慕われ、お妃さまのことも愛し愛されていて、きちんと国を治めていたわけなんだし、昔の殺人事件の犯人を見つけ出したところで、どうして疫病が収まると思うんだろう。
現代に置き換えて、コロナが流行っている時に悪いことをした人を罰したところでコロナは収まらないじゃん。そうでしょう?
悪いことをした人が王様だったら?
確かに役に立たない(私利私欲だけを考えている)政治家を一掃したら、もしかしたらコロナは早く収まっていたかもしれませんけど。
オイディプス王は民から愛される良い王様だったわけで.........。
でも、そんな王様が罪もない老人をすれ違いざまに殺したりするか?
そんな激しい気性は、ひとたびクレオン(腹心の臣下)を疑いだしたら、有無を言わさず処刑しようとするところにも表れてきます。
やっぱり神様の言う通りなのかな。
いやいや、もともとテーバイの先王が自分の子供を殺すように家来に命じなかったらこんなことにはならなかったんだと思います。
神託なんか信じないで、たとえ本当に子供に殺されたとしても構わないと、自分の子供を愛を持って育てていれば運命は変わっていたに違いない........と思いたい。
新木宏典さんが出演すると聞いて観劇したオイディプス王、初めてのギリシャ悲劇でしたが、2500年の時の流れも、遠い異国ギリシャという文化の違いも、何の隔たりも感じず、ストンと入って来るものでした。
新木さんがギリシャ悲劇という新しいジャンルに挑んでくださったおかげです。
できることなら何度でも観たい作品のひとつです。
パルテノン多摩リニューアルオープン1周年記念オイディプス王の公式ホームページはこちらです https://www.oedipus.jp/ 。
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