こんにちわ、ひらりんです。
8月20日の舞台「漆黒天―始の語り」マチネ、ソワレを観てきました。
娘が最初マチネを2枚申し込んだのですが、お金を払ったかどうか忘れたのであわててソワレを申し込んだそうです。あとでマチネの分もお金を振り込んでいたということがわかったので、1日に2回演劇を見るという、まるでオタクの人たちがやるような経験をしてきました。
今回は娘と二人、期せずして真っ黒いワンピースを着て(漆黒天だけに)観劇した漆黒天のネタバレたっぷりの無責任感想をまとめた記事です。
悲しい運命を背負った双子の話
冒頭の場面ですでに心は涙
始まりは顔に布をかぶせられ横たわる女性、傍らにたたずむ人たちのシーン。ひとりは赤ちゃんを二人抱くお産婆さん、ひとりは伴侶に先立たれ泣き崩れている父親。
メインキャストは出ていないこの場面でもうすでに心は持って行かれていました。
お産婆さんの声が低く響き、重苦しい空気が流れている。
父親に、双子は獣腹(けものばら)、家に禍をもたらすからどちらかひとりを殺しなさいと迫っているのだ。
あぁ、この時二人とも育てていればあんな悲しい結末にならなかったのになあ、と映画漆黒天を観た私は両手を握りしめながら念じておりました。
どっちかなんて選べないと嘆く父親にせき立てる産婆。やむを得ず右側の子を選んだ父親。
右か左か、どちらを選ぶかで変わってくるそれぞれの人生。きっと日によって選ぶ赤ん坊は違うんだろうな、と思って観ていたら、やっぱりソワレでは左の子を選んでいました。
つまり、陽之介になるか旭太郎になるかは時の運だったということです。
双子の生い立ちに思いをめぐらせる
父親に育てられた陽之介、野伏に育てられた旭太郎、それぞれの生い立ちを考えると、どっちもそれなりに過酷でどっちもそれなりに幸せだったのではないかなと思うのです。
陽之介は母親のいない武士の家庭で育てられています。武士といってもそんなに位が上の方ではないような気がします。
父親は戦死したのか病死したのか陽之介が成人した今はいないようです。
愛する伴侶に先立たれた父親は、ひとり残された息子に愛を注いで育てのでしょうか。私は、自分の手で子供を殺してしまったという良心の呵責にさいなまれて、残した子供に優しくすることが悪いことのような感覚にとらわれてしまい鬱になり、そのまま病気になって亡くなったような気がします。
成長した陽之介は戦に出て、何度も死にそうな目にあっているようなのです。そのたびに玖良間士道さんに助けられたって言ってたし。
そりゃ、戦以外では衣食住には困らなかったでしょうし、宇内家の長男という自分の足元がしっかりしているという意味では幸せだったとは思うけど、それなりに苦労してきているんだと思うんだよね、陽之介。
だからこそ、優しい奥さんと子供たちと、心の友や道場の門下生とに囲まれた暖かい今の生活を壊したくなかったんでしょうね。討伐帯に誘われたときも。
陽之介は陰陽の陽、日の当たる方だと解釈されていますが、私の印象は冬の縁側にさしている穏やかな日差しです。ギラギラとした夏の太陽ではなくて。
一方、野伏に育てられた旭太郎。旭太郎って私に言わせたらすごいハッピーな子だと思うんですよね。
運よく土の中から掘り起こされて助けられただけでも奇跡。生まれたばかりの赤ちゃんを経験のないおじさんが育てるってなかなか一筋縄ではいかないものがあるのに、人に預けるでもなく自分で育てる野伏の九善坊さん、えらい。
名前だってあさひという意味の旭太郎ってかっこいいのつけてもらってるし。
旭太郎の笑った顔が見たいという野伏の願いは愛情の表れだと思うんですよね。
だから恩に感じることはあっても憎く思う なんて信じられない。
でも、旭太郎は育ての親の野伏を憎んで殺してしまう。なぜなんでしょう。
その日の食べ物を得るためには人を殺しても構わない、という教えに不満があったと映画を観て思ったんですけど、舞台を観ていろいろ考えたら、
実の親に殺されかけた、捨てられたというおいたちにトラウマを持ち、苦しみ、その怒りの矛先が粗暴な育ての親の方に向いてしまったんではないかという思いに行きつきました。
野伏がいなくなってからの旭太郎は、陽之介と同じDNAを持つわけですから、人望があり賢い性格を生かして破落戸(ごろつき)たちのリーダーになっていくんでしょうね。
旭太郎は、陰陽の陰、闇の方だと解釈されますが、実際は日陰党の面々からは光だと慕われています。
旭太郎は私のイメージでいえば崩落した真っ暗な洞窟の中で出口を探している遭難者が見つけた一筋の日の光。生きるための道筋のような。
真っ黒な闇ではなくて。
双子のアイデンティティってふわふわ?
私の娘が3歳の時に通っていた音楽教室の1年上のクラスに一卵性双生児の女の子がいました。
4歳です。まだまだそれぞれの個性が現れていない頃。
1週間に1回しか会わない私にはどっちがどっちなのかさっぱりわかりません。でもその子たちの親はもちろん、小さい時からお付き合いのある人たちはどっちがどっちか瞬時に見分けがつくのです。
「私たちも、小さいころは間違えたりもしたけれど、付き合いが長いとわかるようになるもんよ」
といわれて、私はふと、双子って生まれてからどうやって自己を認識していくんだろうと不思議に思ったものでした。
ふつう子供って、Aちゃん、Aちゃんと呼ばれて自分はAなんだと認識していき、BやCではなくAだと自我が形成されていくんだと思っていました。
でも双子だと、赤ちゃんの時にAちゃんと呼ばれたり、たまにBちゃんと呼ばれたりして、近くには自分とそっくりのBちゃんと呼ばれる子がいて、その子もたまにAちゃんと呼ばれている……。自分であって、自分でない子がいつもそばにいる……。
Aが間違えて自分をBと認識してしまわないのだろうか。
なんていろいろ考えてたことがありました。
他人と自分を識別していく過程で自分のアイデンティティは形成されていくものだと思います。
そう考えると、双子って自分のアイデンティティがふわふわで境界線がぐらぐら揺らいでいるんじゃないかななんて思ったりもするんです。
なぜ妻、富士は殺されたのか
旭太郎は陽之介を観察すると、立ち居振る舞い、箸の使い方までそっくりだったと。何を尊ぶか、とか考え方まで同じだというのです。
そんなことあるわけないじゃん。育った環境で変わるところがいっぱいあるでしょう。
と突っ込みたかったんですが、何から何までそっくりだというセリフは2回も出てきて念を押されちゃったので、そうなのでしょう。
そんなそっくりの旭太郎が陽之介のふりをして陽之介の屋敷に入ります。
妻の富士さんに「自分は誰だ」と尋ねると、陽之介だと。
そう、自分は陽之介なのだ、この世界は本来自分のいるべき世界なのだ、この日の当たる世界は自分の世界なのだ、と旭太郎は思ったのでしょう。。
ところが笑いのお面をつけた途端、妻は「あなたは誰?」と恐れおののき、自分のことを拒むのです。
お面は象徴にすぎません。要するに何もかもがそっくりでも醸し出しているオーラが陽之介とは違うということなのでしょう。
自分は陽之介にはなれない。日の当たる世界には住めない。陽之介は自分とそっくりなのにこの世界には旭太郎である自分は入れないのだ、となった時、旭太郎はこの世界を壊してしまいたくなったのかなと思いました。
そして、あの残虐な顛末に・・・・。
旭太郎と陽之介の演じ分け
旭太郎と陽之介を演じる荒木宏文さんは、おそらく細かいところまで考えてこの二役を演じ分けておられるんだと思います。
でも、1,2回見たぐらいの私がわかるのは、旭太郎は低く暗いトーンの声で陽之介は穏やかで明るいトーンの声の演じ分けぐらいでした。
ところが陽之介が旭太郎の声を出す場面が。
妻や子供たちを旭太郎に殺されたと知った陽之介が、泣き崩れ、笑うような声を発した後に陽之介は旭太郎のような低い声で怒り、憎しみの叫び声をあげるシーンです。
なぜ笑ったのか言葉では説明できないのですが、極限の悲しみの表現なんだと思います。
そして、笑うことでこっちは陽之介だと私は認識しました。
次に来る叫び声は旭太郎だったので、陽之介は陽之介の中の闇の部分の扉を開けてしまったんだなと感じました。
こうなるとふたりの違いはもう誰にも(少なくとも私には)分からなくなってしまいました。
見る目があると言っていた弟子でも、幼いころから知っているから見分けがつくと言ってくれていた心友ですら。
陽之介のアイデンティティはもろくも崩れ去り、双子の境界線はなくなってしまったのだと思いました。
漆黒天-始の語りがアナウンスでは死の語りに
劇場に入ると観劇のための注意をアナウンスしていたんですけど、
「本日は漆黒天ーしの語りにご来場くださり誠にありがとうございます.........」
このしの語りのしが何回聞いても始ではなくて死に聞こえてしまってしかたありませんでした。
イントネーションのせいなのか、アクセントのせいなのか、はたまた狙ってなのか。
案外「死の語り」が正解なのかもと思ったりもして。
陽之介と旭太郎はそれぞれ、大事な人から「行ってしまうのか? もう二度と戻れないというのに」というような意味の言葉をかけられます。確か。
まぁ、私のあやふやな記憶では、なんですが。
もう二度と戻れないその先とは、死を暗示しているんだそうです。
評論家の岡田斗司夫氏がYouTubeの「千と千尋の神隠し」の解説でそう言われていました。
でも、二人は映画まで生きているんですよね。
じゃあ、行ってはいけないその先、行ってしまったらもう戻ってこれないその先ってどこなんでしょう。
それは、陽之介と旭太郎のふたりを分けている境界線をそれぞれが越えるということ?
体はふたつだけど、精神世界でひとつになってしまうということ?
それはもはや、これまでの陽之介と旭太郎とは違う。つまりは今までの陽之介と旭太郎の死を意味しているということなのでしょうか?
少なくとも陽之介は映画ではにこりともしない冷たい印象の人でした。そりゃ、愛する妻と子を殺されたんだから、以前のような穏やかで明るい人間には戻れないでしょうけどね。
スタンディングオベーションしたかったソワレ
自分の中でも整理のできない感想をたらたら書いた文章を、ここまで読んでくださってありがとうございました。
娘は難しいことを考えずに、ただ演劇から受ける感動を素直に持てばいいと言います。
「お話おもしろいな、殺陣すごいな、荒木さんきれいだな」というように。
いくら考えても答えは出ないんだから、考えても仕方がないと。
ほんとにそう思います。
そうは思うのですが、答えの出ないことをついついあれこれ考えてしまうんですよね。
観劇している最中も、たぶんいろいろ考えているんだと思うんです。
18日のマチネ、荒木さん演じる陽之介が一回セリフをつっかえてしまったんです。それから言い直したんです。
私は目の前で誰かが手をパチンと鳴らしたように、我に返りました。
自分はいろいろ考えながら、俯瞰して物語を観ていたつもりだったのですが、私もやっぱり集中してお話の世界に入り込んでいたんだな、とそのセリフつっかえで認識しました。
我に返った感覚が言葉では表せないとても不思議な感覚だったので、そんなところにも演劇のすごさを感じてしまったのです。
娘は、旭太郎が陽之介に「お前は日の当たるところを歩いて来たんだな」というところを間違えて「日の当たらないところを」と言っていて、心の中でずっこけてしまったと言っていました。
私は気づかなかったんですが。
たぶん、荒木さん自身も見ている側ももうどっちがどっちかわからなくなっていたんだと思います。
そんなマチネの後にソワレを観ました。
すごかったです。すべてが。娘はソワレのチケットも買っててよかったと喜んでいました。
同じ日に同じ舞台を2回も観るなんて贅沢、一般の人の感覚ではついていけないものがありますが、2回見てよかったです。
私はカーテンコールの際にスタンディングオベーションがしたくておしりがうずうずしました。
誰か立ってくれたら、私も立つのに!
誰も立ってくれなかったので残念。
帰ってから、何度も足を運んでいる人の感想を読むと、完璧だった、すばらしかった、最高だったと誰もが称賛していました。
あぁ、自分の感性を信じて立てばよかった!
ひとつのお芝居に1回ぐらいしか観にいけない私は、その舞台で受けた感動をその場であらわさないと後がないのだから、今後はがんばってみようと思います。
ムビステ「漆黒天」の映画、舞台の情報は、ホームページ https://toei-movie-st.com/shikkokuten/stage/index.html#top からお願いします。
,映画・漆黒天についての感想を書いた記事 ムビステ・映画「漆黒天―終の語り」(舞台挨拶付き)を観にいったネタバレいっぱいの感想 もあわせて読んでくださるとうれしいです。
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