こんにちは、ひらりんです。

3月最後の土曜日に大阪城近くの劇場で舞台「モノノ怪~座敷童子~」を観てきました。

昨年冬に観た「モノノ怪~化猫~」の第2弾にあたる作品です。

今回は東京だけでなく大阪COOL JAPAN PARK OSAKA WWホールでも上演するということで、大阪で生活している娘の様子を見がてら大阪で観劇することにしました。

達磨(だるま)さんも一緒にご挨拶

「舞台チケット、お母さんが買ってたよね」と娘から前日の夜電話で言われて、今回はあなたが買ったはずよというとあわててスマホをいじり、チケットの購入履歴を見つけていました。

そんなわけで発券したのが観劇直前。

ぎりぎりで劇場につくと、席は一番前のど真ん中でした。

先行でもない遅くに買った席なのになぜこんなに前?

前回のモノノ怪も前の方の席で、劇場全体を見渡せなかったので、今度は真ん中より後ろの席がいいなと思っていたのでした。

客席の通路を使っての演技もあるので、後ろの方で見せるお芝居は前に座っているとほとんど見られなくなってしまうのです。

でも、今回この最前列が結果的にとても良い席になったのです。

それはとあるハプニングが起こったからなのです。

舞台終盤に暗転からライトがついた場面。

薬売りさんが上手の客席に下りる階段をおもむろに降り、一番前の席と舞台の間を歩き始めたのです。

やったー、このまま私達の前に歩いてくるわー!

と思ったのですが、薬売りさんはすぐに何かを拾って舞台上に置き、また何ごともなかったかのように舞台に上がっていったのでした。

それは達磨でした。

座敷童子の化身というか、それぞれの座敷童子の象徴となるものでした。

志乃さんがひとりひとりの座敷童子に話しかけるのに必要な小道具だったのです。

舞台の縁に等間隔で並べられていなければならないものだったのです。

だから暗転の間にひとつ舞台の上から落ちてしまったのは一大事だったんだと思います。

それを少しも慌てず、演出の一部のようにふるまった薬売りさんが見えたのは一番前の列だけでした。

ひとつ後ろの席だと前の列の足元に落ちている達磨さんが見えませんし、舞台上の達磨さんも前の人の頭で見えない場合もあるらしいので。

暗転の間、一番前の席にいてても舞台の上は何も見えませんでした。

そんな中場面を変えることができるのはすごい技術がいるんだろうと感心しました。

そして、最後のカーテンコールの際、2回目に出てこられた時、薬売りさんが

「ちょっと失礼して........」

といって、先ほど拾い上げた達磨を客席の方へ向きを正してから

「みんな揃ってご挨拶........ありがとうございました」

達磨がひとつだけ客席にお尻を向けていたのが気になったのでしょう。

でも、それも一番前の席だから見えたので、結果としてお得な席でした。

ほとんど表情を変えず遠くを瞬きもせずに見つめているような薬売りさんが足元の達磨の向きが見えていたのも意外でしたし、みんな一緒に挨拶をしたいという、小道具ひとつにも魂が宿っているように扱ってくださってるのを知ってキュンとなった瞬間でした。

のちに、モノノ怪の悪戯といわれたこの一連の出来事を目撃できたことは本当にラッキーでした。

座敷童子はモノノ怪じゃない神様でしょ

私たち親子は単純でお話を深彫りしたり、考察したりはできないんたちです。

「薬売りさんと目が合っちゃったねー、恥ずかしくて目をそらしちゃったよー」
「私はそらさなかったよ」

「達磨が上から落ちてくる時すごい音がしてびっくりした! 人に当たったらけがしてたよね」

「少年徳次の峻也君の足すごく細かったね、かわいかった」

「徳次と殺し屋が同じ役者さんなんて気がつかなかった。役者さんすごいよね」

と、無責任な感想を言い合いながら夜の大阪城公園を散歩しながら帰途につきました。

ちょっと興奮しながら。

でも、時間がたってくるとなんか腑に落ちない、もやもやした感情が湧いてきました。

それは座敷童子って神様じゃなかったっけということ。
座敷童子がいるおうちは栄えて、いなくなるとすたれるという伝説の。

確かに妖怪という人もいるけど。悪戯するともいうけど。

この座敷童子は座敷童子ではなくて地縛霊というか成仏できない子供たちの霊なんだと思います。

でなければ、薬売りの退魔の剣によってこの世につなぎとめていたものが切られてしまいあの世へと帰って行ってしまうと、この宿はすたれてしまうんじゃないかと心配になりますもの。

「毎日おかみさんにお参りしてもらっていたから名残惜しくてなかなか成仏できなかった」というセリフも、変だなと思いました。

だってたいていの親は子どもがなくなったらおまつりして毎日お供えしたり話しかけたりするものでしょう。それが成仏できなかった理由のひとつにするのはおかしくない? と思いました。

第1弾の化け猫に比べて薬売りさんはとてもやさしくなったと思います。

以前は新木宏典さんが演じているようにはまったく思えない、どこから声を出しているのか不思議なくらいでしたが、今回は新木さん味を感じることができました。

声も優しいし、時々笑みを浮かべるような表情をしたり。

子どもをテーマにしたお話だし、座敷童子を切るのではなく座敷童子をこの世につなぎとめているものを切るために来たのだから自然と優しくなるんだろうと思いました。

劇場エントランスにおいて昨年の映像が流れていました

舞台モノノ怪を子どもへ見せる意義?

『コロナ禍で失われた文化芸術の鑑賞体験の機会を回復するための子供文化芸術活動支援事業の取り組みとして小学生から18歳の子供を無料で招待する』という文化庁の企画があって、この舞台モノノ怪~座敷童子~も子供は無料だったそうです。

でも私が訪れた土曜の夜はあまり子供の姿はありませんでした。

そもそも遊郭が舞台でお女郎さんたちが出てきて、堕胎で犠牲となった子供たちがテーマのこのお話を小学生の子どもたちに見せるのはちょっとハードルが高いのではないかと思いました。

そして、もう一つのもやもや、私のつたない頭では理解できないところ、

それは遊郭だったころから20年ほど時がたって今は宿屋をしているという、その時間経過なんです。

徳次を見ると明らかに成年男子に成長しているわけなので20年近くの月日が経っていることがわかります。

座敷童子たちも成長している!?

それは幼くして亡くなった子供の霊は天国で成長するという話を聞いたことがあるので、座敷童子をある程度年齢のいった役者さんで表現した理由は最初わからなかったのですが、だんだんそういう解釈もあるのかなと納得しました。

でも、遊郭で働いていた女郎さんと旅館で働いている中居さんたちが同一人物であることがよくわかりませんでした。

だって、どっちも若くてかわいらしかったから。

「ねえさん」と言いかけて名前を呼ぶシーンが何度かあったので、昔は女郎さんだったんだろうなと思うのだけれども。

そこのところがイマイチよくわからなかった点でした。

でも志乃さんが「いい子いい子」とかわいい声で大きなおなかをなでる姿を見ていると、自分が妊娠していたころの、まだ見ぬ愛しいわが子への慈しみというか優しい気持ちを思い出させてくれます。

そういう意味では子供ではなく、世のお母さんに観てもらいたい舞台だったと言えます。

赤ちゃんをおなかに宿すことができるのは女性の特権なわけですが、いつの世もそのせいで苦労し傷つくのもやはり女性と、そして子どもたちなのだなと感じずにはいられません。

昨今の共同親権導入の民法改正案を見ていると、今も昔も女性の生きにくさが何も変わっていないことを痛感します。

薬売りさんはどうか今の世にこそあらわれて、妖怪というかモノノ怪みたいな政治家をぶった切っていただけないかなと思ってしまいます。

このブログでは観劇日記の他に糖尿病などの健康について(ヘモグロビンA1cは努力むなしく上がってしまった。でもなぜか薬の量を減らしてもらった話など) や薬草茶について( 薬草というよりお豆のお茶、あずき茶と黒豆茶はどんな効能があるのでしょうか?など) の記事をまとめています。

よかったら、そちらの記事もあわせて読んでくださるとうれしいです。

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