こんにちは、ひらりんです。

先日、姉とラインで話していたら、姉から
「あんたってオタクね」と言われました。

ちょっと娘から聞きかじった2.5次元の話をしただけです。

いやいや、お姉ちゃん、あなたからオタクとよばれるなんてとんでもない。あなたこそがまだオタクなんて言葉もなかったころから、私の憧れのオタクで、その背中を見ながら育ってきたんですから。

今回はそんなオタクな人達と、そのおかげで知りえた手塚治虫先生のお話をさせてもらいます。

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好きなことをとことん突き詰めるオタクという生き方

裏紙にマンガを描いていた幼い日々

小学1年生の時に東京の練馬に越してきました。向かいは同じ年頃の女の子がいる町工場のような印刷屋さんでした。

印刷に失敗した紙をノートのように束ねた冊子を友達になった女の子からよくもらって姉といっしょにマンガを描くようになりました。 

二つ違いの姉はその頃3年生。絵もうまく、小学館のマンガ雑誌の読者コーナーにカットを投稿しては採用されているような人でした。

二人でテーマを決めてストーリーマンガを描き、見せ合いっこをしながらよく遊びました。

やがて、ケント紙に墨汁、Gペンでマンガを描くことも教えてくれました。最初の頃は割り箸を削って墨汁につけて描いていましたっけ。

車で「あしたのジョー」の看板のある建物の前をよく通ったのですが、それがちばてつや先生の事務所だと教えてくれたのも姉でした。

手塚治虫先生はお医者さんで、開業している病院の前には大きな鉄腕アトムの人形が飾ってあるんだって、と教えてもくれましたが、これはガセネタでした。

昭和40年代の話です。その頃の練馬はキャベツ畑の広がるのんびりしたところでした。

気づくといつも姉の後ろを追いかけていた

2年ほど東京で過ごしたのち、私たち家族はまた関西に引っ越しました。

中学、高校と進んだ私は将来の夢をマンガ家に定め、コツコツとマンガを読みマンガを描く毎日を過ごしていました。

姉も最初の頃はマンガを描いていました。ネットのない時代にマンガ好きの人たちが集まって同好会を作るというので、会ったこともない男の人に会いに行くのに電車に乗ってついて行ったこともあります。「駅前でスケッチブックを持って立ってます」という言葉だけを頼りに会いに行ったのです。

姉の行動力にはいつも度肝を抜かれます。

姉はやがて、マンガよりもアニメにはまり、声優に憧れ声優になりたいと思うようになったようです。中学、高校と演劇部に入り発声の基礎を身に着けていきました。

当時オタクという言葉は一般的ではありませんでしたが、好きなものをとことん追求し情報を集め、それをアウトプットしようとする人たちはいつの時代にもいるものです。

モノクロアニメの上映会をやるというので姉と一緒に観にいったことがあります。家から電車でそう遠くない公民館のような所でした。

そういう情報をかぎつける姉もすごいと思いますが、関西の田舎で昔のアニメのフィルムを借りてきて上映会を開こうとする人たちの情熱もすごいと思いました。確か上映されたのは「レインボー戦隊ロビン」とかだったと記憶しています。

太秦映画村にアニメ歌手の水木一郎さんがライブをするということで姉に連れられて行ったこともあります。
いったい姉はどこからそういう情報を得ていたのか。そして、京阪沿線に住む私たちはどうやって太秦まで行ったらいいか、スマホのない時代によくもまあ、迷子にならずに妹を連れていけたものだと、つくづく姉の行動力に感心してしまいます。

オタクという言葉は1970年代からあったそうですが、その頃のオタクはマイナスイメージだったようです。「趣味に没頭しすぎて精神が破綻した狂人、異常者」という感じ。

でも現在では肯定的な意味で使われています。

アニメやマンガに限らず、何かの趣味に強いこだわりを持つ人全般に使われているようです。

そういったオタクな人達は、自分の好きなものに対して知的好奇心、探求心に溢れていて、自分の情熱のありったけを注いでいるように感じます。

自分もそんな生き方をしたかったと思うのですが、いつも、何ごとにも中途半端だったような気がしています。

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手塚治虫先生に書いたファンレターの返事

初めてできたマンガ友達

私は中学に入った頃からただひたすらひとりでマンガを描くようになりました。集英社の別冊マーガレットのマンガスクールに投稿しては最下位の成績というのを繰り返しながら。

それでもあきらめずにただ黙々とマンガばかりを描いておりました。

中学2年生の時にマンガ好きな友達ができて、その子の家でマンガについて語り合ったり自分のうちに招いて一緒にマンガを描いたりして交流を深めました。

その子は松本零士先生のファンでよくファンレターを書いては出していました。

すると松本零士先生からはたくさんの絵が入り混じった直筆のお返事が封書で届いていました。もうほとんど文通って感じでした。

「ひらりんちゃんの絵も先生見たいって書いてあるよー」

友人は手紙といっしょにイラストのカットも同封していたようです。そして私のことも話題にしていたのでしょう。

私はそういうのが苦手なので断りました。内心嫉妬していたんだと思います。

感動の思いをファンレターに込めて

その頃私は手塚治虫先生の「火の鳥」単行本を1冊ずつ姉に借りて読んでいました。

1冊1冊と読み進めるうちに、そのスケールの大きさ、壮大なテーマに多感な女子中学生は感動し、どうしても手紙が書きたくなりました。

こみ上がる感動、あふれる思いを言葉にして伝えたくてたまらなくなったのです。何枚もの便せんに思いの丈をしるしました。

そして私のところにも手塚先生からお返事がきました。

印刷されたハガキの下の方に手書きのサインがされたものでした。

友人に見せると、
「松本零士先生のより手塚先生のサインの方がすごいよ!」
と言っていましたが、
「そんなこと言っていいんかーい! 松本先生に失礼だろ!」って心の中でツッコミを入れていましたね。

私としては、お返事がどうこうということよりも、自分の昂る感情を文字にすることができ、その気持ちを一方的にでも送り付けることができただけで、それだけで満足でした。

中学の時にできたその友人は、親が医者にしたいと、高校は私立の難しいとこに行けと言われているということで、だんだん疎遠になってしまいました。

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同人誌即売会で同人誌を売り、「火の鳥」のオーディションを受ける姉

昭和にもあったアニメ・フェスティバル

高校生になった姉はますます活動的になりました。

手塚治虫FC京都主催 アニメ・フェスティバル というのが京都で開催されていたのですが、そういうのにも連れて行ってくれました。

今でいうコミケ(コミックマーケット)と同じで、開場1時間前に行った時にはもうすごい行例。まあ国際展示場で開催されるような規模のものじゃありませんでしたが。

ビルの1フロアを使って行われたフェスティバルは、会場の半分は同人誌を売るブースがたくさん並んでいました。私は、そこで竹宮惠子先生のファンクラブの会誌を買ったと当時の日記に書いてありました。

時間が来るとみんな劇場の方に移動、着席し、劇場用の手塚アニメ(短編)を鑑賞したりオークションや抽選会などの催しに参加しました。

そして、今のコミケと大きく違うところは、そこに手塚治虫先生がいらしたことです。
手塚先生のお話を聞いたり、先生への質問タイムもありました。

次の年、姉は買い手ではなく売り手にまわっていました。

確かアニメ「ルパン三世」と「母をたずねて三千里」をそれぞれ1冊に特集した冊子を販売しました。もう1冊あったと思ったのですが、タイトルは忘れました。

それはいろいろな雑誌を切り貼りしてまとめたものです。今ではちょっと通用しないかも……。

私に課せられたミッションは、その頃始まったアニメ「母をたずねて三千里」の再放送を毎日見て、サブタイトルとエンディングロールに流れて来るその回担当の演出家の名前を書きとめるというものでした。
日記を見返すと、最初の10回目あたりまでは高畑勲氏の名前も多いのですが、以降の演出は富野善幸氏、奥田誠治氏、黒田昌郎氏等の名前が残されています。

ビデオのない時代でしたから、終わりの歌のところで気を抜くと見落としてしまって、その部分が抜けた表ができあがりました。

不完全でしたが姉の編集した冊子の中に自分が集めたデータが掲載されていると思うと少しばかり誇らしく思えたりもしました。

当日は昨年同様、手塚治虫先生もいらっしゃっていました。

会が終わりに近づくと、姉は次の日から中間テストが始まるということで、私に後片付けをして売れ残りを持って帰るように指示して先に行ってしまいました。

姉は高校3年生で、親に内緒で来ていたのです。たぶん友達と勉強して来るとかなんとか言って……。私は姉とは違う高校へ通っていたので中間テストはまだでした。

そんなわけで大量の売れ残りを紙袋に詰めて、私は夜の四条通りを京阪の駅に向かって一人とぼとぼ歩いていました。

視線をあげた時、少し前に手塚治虫先生の後ろ姿が見えました!

一人で歩かれていました。

すれ違う人たちも振り向きながら何かつぶやいています。「え、今の手塚治虫じゃね」とかいう感じ。

まちがいありません。こんな時に私にできることは? 何かないか、何かないか?

重たい荷物を持ちながら、見失わないように速足で追いかけながら、思いを巡らしました。

フェスティバルの会場では、
「手塚先生はお疲れです。決して先生に握手やサインを求めてはいけません。もしそんなことをしたら即刻退場です!」ときつくきつく言われたばかりです。

握手やサインは求めてはいけないのです! 

でも私は小走りに先生に追いついて「先生、手塚先生!」と声をかけて先生の足を止めてしまったのです。

手に姉の作った同人誌を数冊持って、
「あの、これ見てください!」と手渡したのです。

「あぁ、さっき会場にいた人? これ、読んだら…批評は奥付けの住所に送ればいいのね。ありがと、じゃ」

手塚先生は冊子を受け取るとまた歩き出し、夜のとばりに消えていきました。

私は極度の緊張からしばらく放心状態でした。気がついた時には先生の後ろ姿はもう見えなくなっていました。

私が柄にもなくこんな大胆な行動がとれたのは、姉の行動を見習ったからです。

姉はこの3か月前にもっと大胆な行動で手塚治虫先生にサインをもらっていたのです!

white clouds and blue sky

映画「火の鳥」のオーデションで東京へ

映画「火の鳥(黎明編)」の火の鳥役の声は一般公募でした。姉はカセットテープによる審査に合格し、東京で行われるオーデションに呼ばれていました。夏休みに入る直前の日曜日でした。

呼ばれたのはプロの声優12人、アマチュア18人の30人。

私は姉の付き添いです。

40年も前のことですっかり忘れてしまっていますが、このころの日記が見つかったので昨日のことのよう文字にすることができます。

姉の1次審査の順番は2番目。手塚治虫先生は遅れていらしたので姉の声は聞いてもらえませんでした。

結果は不合格で、プロの声優さんが多くを占める10名が2次審査に残りました。

落ちた人はみな帰って行きましたが、姉の真骨頂はこれからです。

2次審査を受けるために練習をしているプロの声優さんたちに持って来た色紙にサインをお願いしに回っているのです!
声優さんたちはちょっとびっくりした様子でしたが、嫌な顔せずサインに応じてくれました。と、日記に書いてあります。今読むと冷や汗ものです。

それから2次審査が始まり、終わり、審査員たちの協議があり、それが終わって火の鳥役の声優が決まり、授賞式が行われました。その間もずっと私と姉は廊下で待ち続けました。

姉の手には色紙が2枚とマジックが握られていました。

「もう帰ろうよ」私は怖くなって言いました。いろんな意味で。こんなことをして怒られないかとか、日帰りなので新幹線に乗れるのかとか。

でも姉は
「まだ! せっかくここまで来たんだもん!」と強気でした。

しばらくして、数人の男の人の後に手塚治虫先生が会場から出てこられました。

「おねがいします!」と、姉が色紙を差し出すと、手塚先生は迷惑そうな顔一つせず自然に受け取ると、
「火の鳥でいいでしょ」と言いながら、ペンを走らせました。名前だけじゃなく、絵も描いてくださるんだ。感動してしまいました。

「う~ん、うまく描けないや、ごめんね。でもこれはペンが悪いんだからね、ボクのせいじゃないよ」と先生。

姉「そんなぁ、もういいかげんでいいんですぅ」

1枚目が描き終わると、先生は2枚目にも描こうとしてくれます。すかさず姉は、
「あのすみません、2枚目にはブラックジャックで…」

なんとあつかましいことか。そして、先生へ
「今度あるバンダ―・ブック(100万年地球の旅 バンダ―・ブック)というアニメで、このブラックジャックが悪者になるって本当ですか?」と質問。

「あれ、よく知ってるね。そうなの。最後死んじゃうんだ」
「え~!!」
「でも、全然関係ないよ。医者でもないし」
「あの、もう声優さんは決まったんですか?」
「うん」
「えー! あの、へんな声じゃ…」
「大丈夫、ちゃんとオーディションやって決めたから」
「でも、イメージ壊れちゃったらどうしよう」
「そんなことないよ、イメージぴったり。そりゃ、中にはすごいのもいたけど…」
「あの、どなたになったんでしょう」
「ダメ! それは秘密!」
「そんなぁ」
「はい、描けました!」
「本当にお疲れのところ、すみませんでした。ありがとうございました」

これが、その日のうちに書いた日記に残る手塚先生と姉の掛け合いです。

かなり興奮して書かれています。

姉にできたんだから私も、と思ったんでしょうね。3か月後の私の突撃アタック。

手塚治虫先生からの批評は結局送られては来ませんでしたけどね。そりゃそうです。切り貼りでできた冊子、しかも手塚アニメとは全く関係のないものでしたし。

姉はその後、短大に進学しました。短大生の間は劇団に入り、卒業後、東京で就職。夜は声優養成所に通って、養成所卒業後にそこの所属の声優になりました。

この記事を書くにあたってウィキペディアを見たら、還暦を過ぎているのですが、まだ同じ事務所に所属しているようでした。まぁ、声優といっても名前のある役はほとんどやってはいないんですけど。

ただ、若いころからやっている日本の民話を読む仕事はライフワークのように今も続けているようです。

姉は声優の仕事と並行してオタク活動もしていました。あるアニメのすごいファンだった姉は、全国に散らばっているそのアニメのファンクラブをとりまとめて全国組織を立ち上げ、そのアニメの原作者や声優さんと交流していました。

そんな活動の中知り合った、これまたすっごいオタクの男性と結婚して幸せに暮らしています。

私にとっては義理の兄になる人ですが、こちらはどれくらいオタクかというと、オタクってふつう趣味の時間を使って活動するものですが、お義兄さんはオタクを生業にしています。

好きが高じて映画をプロデュースしたり、特撮物などテレビ関連の数々の書籍を編集、執筆しています。

先日ラインで「1歳の時に見たウルトラQの記憶がある」と言っていました。

「新聞に記事が載るから見てね」と時々ラインが届くのですが、記事を読むとその造詣の深さに毎回毎回感服してしまうのです。

colorful abstract background with lines and lights

手塚先生からの"いのち"のメッセージ

大学2年でマンガ家の夢を断念

自分の才能のなさをサッサと認めればよいものを、私は大学2年までマンガ家を夢見てだらだらマンガを描いていました。

薬科大学に進み、管弦楽部に入ったので、学業と部活動でいっぱいいっぱいでマンガを描く時間が取れなくなり、それを理由にマンガ家の夢をあきらめました。

本当は才能がないのでマンガ家にはなれないということは十分わかっていたのに、情熱で何とかなると思っていたのかもしれません。でも、その情熱もたいしたものではなかったのでしょう。

大学2年の夏休みまでに最高傑作を描き上げ、それを東京の出版社に持ち込もう、それを最後にしてマンガ家になるのをあきらめようと考えました。ですが、それすら仕上げられず、手ぶらで、ただ遊ぶためだけに夏休みに姉の住む東京に行きました。

それぐらいの情熱です。

薬学部に入ったのは父の勧めです。幼少のころから薬剤師になるように言われていたのです。
姉は学校の先生、妹は医者になれと。姉も妹も父の言いなりにはなりませんでしたが。

手塚先生も医学部に行ってマンガ家になられたのだから、私も薬学部に行ってマンガ家になろう。きっとオリジナリティのあるネタを見つけられるんじゃないか、ぐらいのノリでした。

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クリエイティブな仕事を求めて転職、そして運命の再会⁉

大学卒業後、製薬会社の研究室で3年近く働いた後、その仕事を辞めました。

研究員とは名ばかり、ルーティンの仕事の毎日でした。

「マンガ家になれなかったのは絵がヘタだったから。文章なら何とかなるんじゃない? 物書きになろう。とりあえず文章を書く勉強ができる仕事に就こう」
という考えにいたり、会社を辞めたのでした。

3か月ほどかけて見つけた転職先は社員20名ほどの、当時教材をメインに製作していた大阪の編集プロダクションでした。

1988年12月、新しいプロジェクトが立ち上がり、その決起大会が京都のホテルであるというので、わが社からも私を含めた数名が社長と一緒に参加しました。

それは90年に開催される「国際花と緑の博覧会」のシンボルタワー「いのちの塔」の企画でした。

「国際花と緑の博覧会」(花博)というのは、大阪の鶴見緑地で開催された、アジア初の国際園芸博覧会でした。その中のシンボルタワーである「いのちの塔」は展望塔という役割がありました。

でもそれだけではなかったんです。

名前がなんせ「いのちの塔」ですから。

もともと「地球ふしぎ・生命ふしぎ」をテーマに、生命の大樹・いのちの塔出展実行委員会により「生命の大樹・いのちの塔」のパビリオン名で出展されたものでした。子供たちに生命の神秘を感じてもらい、いのちについて考えてもらおうという趣旨でした。

私たちの会社は、その子供たちに配布する会員誌を編集する仕事を担うことになっていたのです。

入社まもない私は右も左もわからないまま、会場の片隅に立っていました。
すると、会場にいた人たち全員に一枚の紙が配られました。

「本日出席予定でした手塚治虫先生が、体調不良のため欠席されることになりました。先生からのお手紙がファックスで届きましたので、皆様にお配りします」

なんと、手塚先生もいのちの塔の実行委員会の一員だったのです!

手紙の内容はだいたいこうでした。

子供たちにいのちの大切さ、生命の不思議を伝えることは大切なこと。
自分も何か役に立てることがあれば、お手伝いしたい。
本日も京都に馳せ参じたかった。
ですが今は療養中のためできない。
いのちの塔の企画をがんばって成功させましょう。

ワープロ打ちの文章の最後に直筆のサインがありました。
あのファンレターの返事のハガキにあったサインと同じでした。

運命じゃない?  これは運命なんじゃない?
私がこの会社に転職して入ったというのは運命なんだ!
手塚先生と出会い、いっしょにお仕事するために私はここに来たんだ!
先生が元気になれば、私は先生の原稿をもらいに東京に行くんだ!
すごい! すごい! すごい!

年が明けると、元号が昭和から平成に代わりました。

そして2月。マンガの神様は神様の国に旅立っていかれました。

当時、高田馬場に住んでいた姉のうちを訪れ、手塚治虫先生の事務所の前に夜、連れて行ってもらいました。
そして、先生のご冥福をお祈りしてきました。

★火の鳥の話を書いていたら、久々に火の鳥のマンガを読みたくなってきました。
読みたくなってきませんか?
ぜひ、下のリンクから手塚作品を検索してみてください。

私の少女マンガへの思いを綴った記事 昭和、夢見る乙女の少女まんが もあわせて読んでくださるとうれしいです。

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